飯縄法発祥の地域 霊峰飯縄山

長野市信州新町信級に位置する飯縄山(いづなやま)は、標高866メートル、山頂には飯縄宮が祭られ、古代から中世にかけて、飯縄信仰のとても盛んな地域であり、周辺庶民からの信仰が向けられた地域の霊山でした。周囲の山谷では、山岳信仰や修験道が盛んであったと伝わり、江戸時代頃までは、遠方から修験道者などが泊まり込みで修行や参詣に来ていたといいます、また毎年四月八日の「飯縄大明神」の祭りには「飯縄社七山がけ」の巡回の山として、多くの民衆が切れ目なくこの飯縄山に参詣していたと伝わります。

信州新町萩野は飯縄法発祥の地

現在の全国に広がる飯縄信仰の本山である長野市飯縄高原(長野市大字富田 353)にある飯縄神社(皇足穂命神社)の由来には以下のように記されている。「西暦1233年(天福元年)に信濃国荻野(長野市信州新町萩野)の地頭、伊藤兵部太夫豊前守忠綱が明神のお告げにより入山し、山頂に飯縄大権現を勧請した。」「飯縄明神の告げにより天福元年(1233)山頂に幣座(へいざ)を構え、断食して奉仕につとめ、遂に神通自在を会得して、応永7年(1400)卒す。その子次郎盛縄、長寿して奇験あり」「荻野城の麓にある中条村大久保の飯縄神社は、忠縄が飯縄の法を修めたの地という」

上記の伊藤兵部太夫豊前守忠綱の居城であった信州新町萩野の萩野城からこの飯縄山までの距離は、峰づたいの古道(御林通り)を約1時間半ほどで行き来できる距離(5㎞程)にあり、萩野城から峰道を徒歩で一日で行き来できるため、伊藤兵部太夫豊前守忠綱も度々入山したと思われる。現在、全国に広がる飯縄信仰の発祥の地域として深い関連ある山と思われる。

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中世の飯縄山(江戸時代)

この飯縄山は、江戸時代までは、山頂に、荘厳な飯縄宮が建立されており、日名村(日原)と外鹿谷村(信級)共同で管理し、日常管理は、外鹿谷村が行い、宮司は日名村の高橋氏が代々務めていました。毎年の四月八日の「飯縄大明神」の祭りの十日間は、地元の集落では交代で「おこもり」と呼ばれる神社の火を絶やさないようにする習慣があり、山頂に泊まり込んだと伝わります。そして飯縄様の祭りの日は、庶民などの多くの人々の参詣と「七山がけ」の巡礼者で切れ目なく賑わい、奉納相撲も行われていたと言います。

また当時は、山頂一帯は神の森とされ、直径1メートル以上の巨木に覆われ昼間でも、ムササビなどが飛んでいるようなうっそうとした薄暗い原始の森が続いていたいいます。山頂の飯縄宮から峰づたいの参道を麓の日名村まで「峰松」と呼ばれた赤松の巨木の参道が続いたといい、犀川対岸の牧郷・大岡方面からも荘厳な眺めの山であったと伝わります。

近代以降の飯縄山

明治時代になると、明治30年頃から始まった国家神道強化政策、廃仏毀釈・神社合祀令により、この霊山は、国家神道政策にはそぐわない山岳飯縄信仰の山であったこと。また本鹿谷村との神社争いに負け、山頂の神の鎮守の森と麓までの峰づたいの参道にあった赤松巨木並木は、軍による測量という名目で3年がかりで全て伐採されてしまい、その材木は、新町の大和屋が買い付けてほどんどの木は東京方面へ売り払われたといいます。さらに飯縄宮の本殿や鳥居なども全て取り壊され、飯縄宮の社地一帯は競売にかけられ払い下げを受けてしました。また本殿内にあったというカラス天狗を象った本尊も本鹿谷村の当信神社に移送され、神社関係書類などと一緒に全て抹殺されてしまったらしいと伝わります。その後、飯縄山頂は、杉や唐松が植林されて人工林の山に置き換わり、本殿跡には小さな祠が建立、ごく普通の山にされてしまいました。これにより貴重な飯縄信仰の文化遺産は失われ、この飯縄山の歴史は、闇の中に消されてしまいました。

江戸時代までは日名村と外鹿道村で大切に共同管理していた飯縄宮は、明治時代になると、日名村が外れ外鹿谷村と本鹿谷村が合併した信級村の管理となります。しかし信級村では、本鹿谷村の当信神社の氏子の勢力が強く、国家神道政策も絡み、地元集落のみでは守りきれず合祀となり、取り壊しとなります。大正時代に再び地元により山頂に神社は再建されたが、またも昭和初期に信級峠に社殿が動かされてしまい、その後地すべり災害が襲います。

各方角からの飯縄山

信級峠より見た飯縄山
日原西から見た飯縄山
日原東から見た飯縄山

飯縄山頂上からの景色

参 道

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参道は、ここ100年あまり整備されていないためとても荒れている。傾斜のきつい岩山や崖が続くので上る場合は注意してください。

大岩と呼ばれる難所

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長野地域に巨大な結界を形成

広域で長野地域を見ると、長野市信州新町の飯縄山、熊野道修験霊場だった長野市松代町の皆神山、戸隠修験霊場の戸隠神社中社を線で結んでみると見事な巨大正三角形が現れる。
長野市信州新町の飯縄山を含む西部奥地一帯は、特に山深く断崖絶壁に囲まれ容易に踏み込むことができない場所が多い、また行者を祖とする集落が複数点在していることや古くからの伝承などから中世は、この辺りには、一大修験霊場が存在し、飯縄信仰が盛んだった可能性が極めて高い。
信州新町飯縄山から小川、鬼無里、戸隠へ向かう線上の古道には、寺院や神社など重要文化財も多く、古代は修験僧や人の行き来がとても盛んであった。
 

飯縄山を中心に定められた重要神社・寺院

 この地域の主要神社・寺院が、全て飯縄山を中心配置されていることが分かる。地域の主要神社である日原-生玉神社と信級-当信神社が飯縄山を中心に東西に配置されている。さらに南に飯縄山常光寺と北に天狗山、その先に飯縄法確立者である伊藤兵部太夫の萩野城が飯縄山を中心に対峙している。
 また萩野には、平安時代末期に木曽義仲の落人と共に、京都から真言宗玉泉寺がこの地まで赴き、まず萩野の地で開山したという。
 飯縄山の南側参道麓の日名には、天台宗善龍寺がある。平安時代(864年)に京都から赴いた法師により開山されたと伝わる信州新町で最も古く、修験道とも深い関係の密教系寺院がこのエリア内に存在している。2つの寺とも京都からわざわざこの地に赴いた事には深い意味があると思われる。

山頂の飯縄神社

明治44年社殿や鳥居が壊された後、祠のみが残る

飯縄社七山がけ

飯縄法との関りが深い萩野城

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飯縄山と関わりの深い天狗山

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天狗山から見える各地の飯縄山

天狗山を起点に見た各地飯縄山
長野北部飯綱山から見た各飯縄山

萩野城近くの天狗山を中心に各飯縄山を望んだ場合、四方面に各地の飯縄山が並ぶ。この天狗山から伊藤忠綱により各方面の飯縄山が定められたと考えるほうが自然と思われる。

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飯縄山と関りが深い日名山善龍寺

寺譜伝によると、元慶3年4月(西暦879年)1143年前 京都比叡山延暦寺第3第天台座主滋覚大師の弟子あたる相応大師が、ここ飯縄山参道入口の日名地区に赴き、開山したと伝わる信州新町でも最も古い天台宗の寺である。天台密教と飯縄山、修験道の関りは深く、この地域の奥深い歴史が感じられる寺である。寺譜伝を裏付けるようにここの周囲からは信州新町で唯一の奈良平安時代の大きな屋敷跡跡がいくつも発掘されている。寺は、その後焼失再興を何回も繰り返し、一度廃寺となっている。